子守学校の授業風景
本圀寺仮教室における本科1年生
校門には高女・裁女の両校名が掲げられた
明徳裁縫女学校に別科を設置/「光山コドモ会」を「光山幼稚園」と改め本圀寺から明徳学園に経営を移す
第1回秋の卒業旅行・別府港にて(昭和2年)
手回しミシンでの裁縫学習(昭和4年)
明徳高等女学校に補習科を設置
※卒業生対象。修業年限1年
全校生徒が雨天体操場(体育館)に集まって朝の体操(昭和6年)
謝恩会・卒業生25名(昭和6年)
増築の新校舎(昭和15年)
夜間部(定時制)の学習風景
財団法人から「学校法人」に組織変更認可
「明徳幼稚園」を開設
鯉のぼりを楽しむ園児(昭和27年)
一般にも公開された夜間タイプ教室
洋裁学院の作品発表会(昭和31年)
明徳デパート誕生(昭和32年)
商業実習の場として実施された学校行事(学園祭)で、用度・接客・販売・出納・記帳・装飾・広告・商品受払・労務管理などすべてが生徒たちの手によるものであった。また、行事終了後には損益計算書が作成され、昭和33年には2日間で総売上高115万円、純利益25万円。さらに36年には実に55万円の純利益を上げるほどの本格的なものであった。
体育館での演劇祭(昭和33年)
合唱コンクール(昭和36年)
弁論大会(昭和37年)
全校珠算競技大会・当時は青空大会(昭和34年)
商業の専門科目として授業で培ってきた計算能力を競い合う一大行事。明徳商業高校では、商業技能の中でも、もっとも中心である珠算に重点をおき、毎週火・金の午後授業開始から約10分間、全校生徒一斉にソロバンの練習を行い、採点後に上位20人を発表する手法で珠算技能の習熟に励んだ。この学習方法は新聞でも取り上げられるほどユニークなものであり、「珠算の明徳」をつくりあげた原点ともいえる。
明徳会館完成(昭和38年)
珠算・全商大会初優勝(昭和42年)
珠算・国民珠算大会初優勝(昭和44年)
昭和42年を皮切りに、全国高等学校珠算競技大会で15回、国民珠算競技大会で20回の全国制覇という金字塔を打ち立て、全国で「珠算(そろばん)の明徳」と言わしめた。また、個人でも「そろばん日本一」、「そろばん世界一」のタイトルも幾度となく獲得し、明徳の名を日本全国にとどまらず世界に知らしめた。
卓球・連続6年の全国出場(昭和45年)
昭和8年から15年まで8年間、京都代表として全日本選手権大会に出場し、昭和12年から4年連続で全国制覇を達成。また翌16年には全国学校対抗卓球大会にて優勝し東郷優勝旗を持ち帰り、「卓球明徳」の黄金時代を築き上げた。戦後も幾度となくインターハイや全国高校選抜大会への出場を成し遂げている。
ソフトボール・延長32回までもつれた大分国体の入場式(昭和41年)
ソフトボール・アジア大会優勝(昭和42年)
昭和37年の全日本高校女子ソフトボール選手権大会・国民体育大会への出場を果たし、昭和42年にアジア女子ソフトボール選手権大会で優勝。また昭和51年には全日本高校女子ソフトボール選手権大会(インターハイ)で初の全国優勝を獲得するなど、数々の偉業を打ち立てている。
猪熊学舎正面
沖縄へ初めて航空機での修学旅行(昭和54年)
図書館風景(猪熊学舎)
昭和54年、関西地区優良学校図書館として、全国学校図書館協議会のメンバー総勢72名が見学に訪れた。
明徳総合グラウンド(中山グラウンド)
〜現・京都明徳高等学校校地〜
沓掛グラウンド、最後の体育祭(昭和60年)
〜現・京都成章高等学校校地〜
地鎮祭